日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と云った。
                (夏目漱石三四郎』)

落ち着いた色の、しっかりとした表紙を開くと、最初に書いてあるのが、この一文である。
タイトルの「亡びるとき」に続いたこの引用は、さらに危機感をあおる。

確かに、この一冊を通じて、筆者は日本語が亡びる危機感も伝えているのだが、そこにいたる考察は、そんな一言で語りきれるものではない。
この本にこめられたメッセージは、単なるナショナリズムや、国語イデオロギーから生じたものではない。
非常に深い思索と、幅広い「日本語」の研究の末、導き出された、重厚で示唆に富んだ考察がつづられている。

英語圏での(英語に馴染めず、日本にあこがれた)長い時間を過ごし、フランス文学を学ぶという経歴を持つ筆者が、ある作家の交流プログラムに参加することから、「国語」に対する考察が始まる。

  • 世界中で、人々は、本当にいろんな言葉で書いている。
  • しかし、西洋と非西洋の「非対称な関係」がある。
    • 西洋と非西洋では、事象を共有できない。

普遍語である英語で発信された真実は、世界の真実である。しかし、マイナー言語である、たとえば日本語で、発信された真実が、世界の事象として同期するには、大きなタイムラグがある。また、フィルタもかかる。
西洋と日本で流れる時間が違う。完全に事象が違う。
インターネットが普及した現代では、この現象は加速しているといえる。

さらに、この現象が顕著に現れるのが、学問の世界である。
この事象の問題は、学問では致命的であり、マイナー言語のまま真実をとどめてしまっては、世界の真実になり得ない。
だから、我々は、必要な論文は英語で書く。
<テキスト>は普遍語で書かれるべきものなのである。

戦争などの要因も大きく影響するものの、合理的な政策として、英語を公用語として教育する国も珍しくなく、現に、英語圏はどんどん広がっている。日本においても、英語の教育機会を増やさなければいけないという意見も良く聞く。

しかし、マイナー言語となった「日本語」で考えるからこそ、わかる事実もある。
それは、「言葉」に対して、常に思考を強いられる運命であり、<真実>は一つでないことを知ることができることである。
筆者は、これを「希望」と呼んでいる。

特に、地理的に、そして歴史的に、偶然に偶然が重なり、複雑な言語体系ができた日本語は、まさに「奇跡的な」文学資産を生んだ。

うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる。此爺さんは慥(たし)かに前の前の駅から乗つた田舎ものである。発車間際に頓狂な声を出して、駆け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思ったら背中に御灸の痕が一杯あつたので、三四郎の記憶に残ってゐる。爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣に腰を懸けた迄よく注意して見てゐた位である。


なんの変哲もない出だしだが、ああ、こんな時代があったのだと、自分が生まれてくるまえの古くて新しい日本の<現実>が、これ以上ありえないほど、鮮やかに目の前に立ち上がる。「田舎者」の「爺さん」と「女」がぼそぼそとはなす様子が見えるだけでなく、ゴトンゴトンという列車の音さえ聞こえる。振動さえ感じられる。
自分が不意にその場に連れてゆかれる。
日本人がこの『三四郎』を「原文」で読めなくなっても、「現に日本人」であり、「日本を見失」ってないと言えるのであろうか。
                                 (p.314)

奇跡が重なり形作られた日本語という豊かな表現方法と、天才によって生み出された文学作品が数多くのこる。我々はもっと読むべきだし、これを伝えなければならない。

日本語は、古くは漢字に学び、あらゆる経緯を経て、柔軟に変化している。
現代においても、英語が徐々に入り込んできていて、論理的で簡潔な日本語が好まれる。もうあと少ししたら、表意語としての日本語はどんどんシンプルになっていってしまうのではないか。

英語の世紀という事象を理解しつつ、今一度、「国語」を考え、優れたものを見直す時期に来ているのかもしれない。