海辺のカフカ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)


ただただ、自分の欲求に任せてことばを追いかけ、ページをめくっていく。
読んでいるというよりも、自分で考えを巡らせているような感覚だったように思う。

「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」

それなんて中二病?な書き出しに、とても入り込むように思えなかったはずなのに、気づけば鮮明に世界を描いてしまっている。切り出した最初のこの一文が、青臭いという印象から、社会という”システム”に立ち向かうための心強い決意に変わっていく。

「世界はメタファーだ、田村カフカくん」
                    (下巻,p523)

15歳、若い頃、今ほど経験や情報を得ていない時、世界をどのように捉えていたのだろう。
いろんな思考をめぐらしてはいたと思う。おそらく、何かに置き換えて、何かに重ねあわせて、「想像」していたのだと思う。見たこともない社会、システムを捉えるには、メタファーで想像していたはずだし、いまもそうすることが多い。


すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities-----まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。
                               (上巻,p277-278)

『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。』


しかし、いま向き合ってる事実、そこにある場所はメタファーでもなんでもない。

カフカは僕らの置かれている状況について説明しようとするよりは、むしろその複雑な機械のことを純粋に機械的に説明しようとする。つまり・・・・・・」、僕はまたひとしきり考える。「つまり、そうすることによって彼は、僕らの置かれている状況を誰よりもありありと説明することができる。状況について語るんじゃなく、むしろ機械の細部について語ることで」
                               (上巻,p118)

まだ知り得ないもの、理解を超えたものに向き合う姿勢を、想像の繰り返し、すなわち「物語」として構成し読ませる村上春樹の凄さを改めて知った。


"意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができたんだ。宙を飛んでいる蝶々の羽をやさしくつまんで捕まえるみたいに、夢の中で言葉をとらえるんだ。芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ"

この感覚を知る身近な方法は、本書を読むことで得られると思う。



物語で描かれる世界は非現実的であるが、一方で、どこか生々しい。
記憶や欲求を文字にして認識することで、現実により一層正しく向き合えるのではないだろうか。