読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

一見、ジョーク本かとも思わせるタイトルだが、
このタイトルにいたるには、「読書」に対する相当な考察が必要だ。

先ず、人は「本を読んだ」と言うが、それは一体どういう状態を指すのだろう。
ただ、一字一字を目で追いかけるという作業が「読んだ」ということならば、それはほとんど意味が無い。世間では、「あの本を読んだ」と言うと、その本が取り上げる分野についての教養を共有できることを期待される。しかし、本当にその教養は、「同じ本を読んだ」だけで満たすことができるのだろうか。
読書とは、その時、自分の中に内在する知識や思いを、投影する手段に過ぎない。実は、本から得られる教養や、受けとる情報は、人によってバラバラな筈だ。しかし、「読書」という行動に対する幻想は、共通認識として世の中で罷り通っている。

そういった「読書」に対する曖昧な基準を冷静に考えると、実は、その本などほとんど読まなくても、本について語れるのである。
実際の話、この挑戦的なタイトルの本の筆者も、大学の文学部教授という肩書きを持ちながら、堂々と「読んでない」と言い放っている。

世の中には、本を読まなくても、その本について語ることができるノウハウはたくさんある。また、本を読まないことによって良いこともたくさんある、ということを、真剣に考えた本である。

読書によって失うもの

人は、何かを得ようとして読書をする。
実際、本からは筆者が得た知識を手早く知ることができる。
しかし、それらの何パーセントが自分のものになるのだろうか。

読書は何かを得ることであるより、むしろ失うことである。
(p77)

何かを得たと同時に失うものもたくさんあるのが、読書の危険性の一つである。
単純に情報として忘れるということもあるが、さらに気をつけなければならないのは、誰かの意見を聞いた時点で、考えかたに少なからずとも影響を受ける。つまり、読書には独創性を失う危険性も秘めているのである。
読書の際に注意したいのは、世の中に溢れる知識・主張のなかで、自分のポジションをしっかりと持っているかどうかである。そのなかで、読んでいる本の位置づけを把握できないと、自分を見失う。そういった意味で、「良書」と呼ばれるものは危険といえる。自分と、書物との関係を保てないようなら、読書なんかしない方が良いというのが、筆者の主張。

こういった考察を、筆者はうまい表現でまとめている。

  • p96

<内なる図書館>

  これが一致すると、共用が共有できる。

 <共有図書館>

  ここを否定されると傷つく。

  • p106

 私はこの集団的・・・・
  <内なる図書館>と呼びたい。

 内なる図書館は、人それぞれの本の読解を方向付ける。


読書とは何か、そして、自分と本との関係を見直すには良い機会になった。

訳が堅く、正直読み辛かった。
この本の読み方のコツは、一番客観的に、ポイントをまとめた「あとがき」だけをしっかり読むことだろう。

この本自体、ある程度売れるだろうから、僕のようにがんばって読んだ人が残してくれる書評を一通り読むほうが、理解はより深まるだろう。
この本こそ、「読まずに語る」のも最も適した本かもしれない。